麻耶雄嵩 「夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)」

 ■ 奥の深い物語。 一度読むだけでは魅力が判らない ■

神とは、主観と客観を超越する。  両者を衝突させる「過程」にこそ、「神」が存在する・・・

何だか宗教っぽくて胡散臭い文章だなーと思うなかれ。これこそが作者が訴えたかった事なのだ。
麻耶雄嵩著 『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』は、読むほどに味の出てくる非常に奥深い物語だ。

おれの独断と偏見によると、楽しみを享受できる読者の傾向はこのような感じだ。




謎解きをするとか物語の裏を読むとか・・・
色々と自身で考えを巡らせるのが好きなタイプの人間向けな作品なのだな。

ストーリーを紹介して貰えるか、村田?


簡単に説明すれば、こうだ。

20年前、今は亡き女優・和音の魅力に憑りつかれ、 6人が共同生活をしていた孤島・和音島。
彼らの同窓会取材の任を受け、烏有(うゆう)はアシスタントの桐璃(とうり)を連れて この島への船に乗り込む。

だがそこで二人を待っていたのは、暖かい歓迎などではなかった。
桐璃が和音に瓜二つであるという事実が、彼らの20年間封じ込めてきた 記憶を呼び覚ましたからだった。

険悪な雰囲気の夏の朝、雪の降り積もった中庭で発見される首無しの惨殺死体。
しかし犯人のものと思しき足跡は一切無く、死亡推定時刻までに雪は降り止んでいたため、 それはまさに『開かれた密室』で起きた殺人だった・・・。
犯人は、如何にして足跡を残さずに脱出できたのか?


20年前に、一体何が起こったのか!?
6人の人物が抱いた、「展開」とは・・・  それに伴う忌まわしい記憶とは、何だったのかッ!?


これらの絡み合う数々の謎を解き明かすキーワードこそ・・・「神」ッ!!  

まさか、神様が殺人を犯したので足跡が付かなかったのでーす・・・
なんて寒いオチではないわけだろう?

だとしたら、なかなか面白そうではないか。


うむ。 しかしこの物語の魅力は、決して神懸かり的なトリックではない。
読み返すことで作者の主張がじんわりと判ってくる感覚こそが魅力なのだ。

例えば、「同じモノが二つあるなら、一方が壊れても他方で代用すればいいだろうか?」 という問いを考えてみる。
一般論で言えば、モノの正体がExcelファイルのような電子データなら勿論OK・・・
しかし人格を持つ人間ならNG、といった解答になるだろう。
少なくとも、死んだ人間の代わりがクローンでいいという考えに市民権はない。
「それは何故!?」という点を、作者は問うているのだ。

こうした、クローン技術や臓器移植などで発生するであろう アイデンティティの問題について、深く掘り下げられている点がいい。
この問題に際しては、主観・客観が入り混じらなければ議論が出来ない。
そこで・・・ 冒頭の「神」の話が出てくるというわけだ。


結局、境界線をどこでどう引くか、だからですね。
客観的に見たら人も電子データも同じ「モノ」というカテゴリなのに、 主観的には「人」を例外視しようとする。

だからこそ、主観と客観が衝突し、「人」を特別視する客観的存在の 「神」を作り出す・・・
そんな感じの議論ですね。


その通りだ。 あくまでこの例に限っての話と理解して欲しいがな。

そして神を真面目に扱う物語は、概して神の存在の大きさから面白さが 損なわれてしまうものだが、この物語ではそれを微塵も感じさせない。
考えるにその理由は、物語の奇抜さが神の圧倒的な存在感をキャンセルしている ことにある。

特に、キュビズムの精神を殺人事件にまで昇華させた奇想には恐れ入る
キューブ(立方体)の語源からも判る通り、キュビズムとは二次元の中に三次元を 取り込もうとする絵画手法だ。
その志向するところは、『徹底的なリアル』に他ならない。
これが殺人と結びついていくという非現実・・・  神という存在の前でこそ相応しいではないか。


キュビズムとは、ピカソの絵に代表されるようなアレだろう?
左顔、右顔、頭、鼻、口、腕・・・ 見る方向を変えて描かれたパーツで 絵が構成されているような。

確かに、これが殺人とどう関係するのか全く想像できないな。
まさに、神のみぞ知るといった所か。


その通り。 何かを超越した、汲み取れない奥深さがこの小説にはある。
これで「チーム・ゴルボンズ」は、

人類の叡智を、また一つ獲得したッ!!

うむッ!!

inserted by FC2 system